映画界の風雲児 荒戸源次郎さんから学んだこと①

10月10日は映画界の風雲児で数々の傑作映画を生み出した荒戸源次郎さんのお誕生日だ。お祝いに赤ワインと海外土産の葉巻を贈ったら喜んでいらっしゃったのが懐かしい。映画の世界をひと目見たいと15年前、荒戸さんを訪ね、一時期荒戸映画事務所のお手伝いをしていた。秋になると心をよぎる当時の出来事。荒戸さんからお聞きした映画製作における数々の逸話、そして鈴木清順監督よりも早く亡くなってしまった葬儀での最期のお別れのこと・・・。

2003年に映画『赤目四十八瀧心中未遂』をポレポレ東中野で観たとき、スクリーンから発せられるエネルギーに圧倒された。異世界に連れてこられたような感覚。そして30歳で映画主演デビューを果たした寺島しのぶさんが眩しかった。ヒロインに若さや可愛さがもてはやされる日本で、自分の足ですっくと立つ大人の女性の佇まいにしびれた。そんな女優を抜擢した監督の荒戸源次郎さんは実際どんな人なんだろう?荒戸さんの映画作りに興味津々で過去の作品を辿った。
荒戸さんは映画界の風雲児だった。プロデューサーとして『ツィゴイネルワイゼン』で鈴木清順監督を復活させベルリン映画際など数々の映画賞を受賞、阪本順治監督を筆頭に多くの映画人を育て上げた。

その功績にますます興味がわいて大和屋竺さんとの映画も含めたかつての作品群を見、その作品背景を調べては荒戸さんの破天荒ぶりに驚愕した。(そのエピソードに興味のある方はwikipediaをみてください)

『ツィゴイネルワイゼン』上映時は、製作から興行まで一貫して手がけ東京タワー下に「シネマプラセット」という移動式の専用映画館を作ったことは今や伝説として映画ファンに語り継がれている。ミニシアターの先駆けだった。時には映画監督や俳優として映画に携わる。その実験的かつ自由自在な製作方法と独自スタイルにわたしは憧れた。

「映画の世界の扉を開きたい」

製薬会社に新卒入社する前の学生最後の春休みに荒戸さんに手紙を送るとお返事がきて、経堂にある荒戸映画事務所を訪ねることになった。

1時間ぐらいの対面の中で私が話したのはたったの数分だけ。あとは荒戸さんが虎のような形相でまくし立てる。

これは一体・・・なにを試されているのだろう?圧倒されそうになったその時「映画の世界の事は分からなくても生きてきたエネルギーは負けないし!」という思いが沸き立って、一瞬も目をそらさずジーっとにらんで話を聞き続けた。

結局、

「聖心を出て大会社に入社するお嬢さんをうちでは預かれない」と言われて荒戸映画事務所をあとにした。

4月に入り大阪で就職先の新人研修を受けていたある日。研修後、通天閣をながめにいくと荒戸さんプロデュース、阪本監督デビュー作映画『どついたるねん』を思い出し、映画への諦めきれない思いが溢れ出て荒戸さんに電話をかけた。

すると

「君の情熱はよくわかった。君の空いた時間に手伝いにおいで。映画の世界を見てみるといい」

そう荒戸さんはおっしゃり、まずは事務作業を手伝うことになった。けれども通ううちに冬の映画公開に近づくまではやることがなくなり、事務所へしばらく足を運ばなくなった。そうして秋のある日。母が電話の受話器を持って台所にいるわたしの方へ走り込んできた。荒戸さんからの電話だった。慌てて電話に出ると、荒戸さんからひとこと

「君の出番が来たよ」

荒戸映画事務所が建設した東京国立博物館敷地内の一角座。そのプロパガンダが記された当時の映画チラシ

東京博物館の敷地内に建設された映画館「一角座」での大森立嗣監督のデビュー作『ゲルマニウムの夜』の上映に向けて本格的に宣伝活動や映画館業務のサポートを担当することになる。全てが未経験、未知の世界にえいやと飛びこみやるしかない。

2005年12月17日、映画館オープン日には内田裕也さんら、荒戸さんと交流のある映画関係者が続々と訪れ、映画を見にきた一般来場者の誘導と法隆寺宝物館でのVIPの方々を招いたレセプション会場の責任者として一角座とレセプション会場を駆けずり回る慌ただしい1日がスタートする。何が起きるかわからない。瞬間瞬間の判断がものをいう。興行とレセプション準備という別々のタイムラインを朝から晩まで臨機応変に対応し最終上映回後全てのお客様を見送ると、オープン初日を無事終えられたことに安堵した。

数日後、いい働きだったから美味いものでも食べに行こう、と荒戸さんに呼び出されてお付きの人と和食屋さんへ足を運んだ。

食事しながら荒戸さんが言う。

「あなたは、できない理由を作らない。本気で勝負しやり遂げる人だ。」

「俺の右腕にならないか」

こんな言葉をかけてもらえるんだと、ただただ光栄だった。映画についての経験値はゼロで日中は会社員。行動に移し目に見える結果を出して貢献する。そのことでしか尊敬する映画人たちと信頼関係を結べないと思っていた。だから心の底からうれしかった。

けれども冷静になって「わたしの将来的な目標はなんだっけ?」とじぶんに問いかけてみる。よくよく考えて、わたしはこれまで通りボランティアで週末と平日夜お手伝いし、平日は会社勤めをする道を選んだ。その方が将来的には世の中の人々を巻き込める術を身につけられるように思ったからだ。そしてその意思は尊重してもらえた。

その後もあれやこれや自分なりに映画を広めるための作戦を考えた。それはハードだが楽しくて、荒戸さんに「こうしてみたい」と提案をすると「やってみろ」と任せてくれるのがうれしかった。

「経験があろうがなかろうがやり始めたらプロフェッショナルなんだ。その心構えをもて」

即戦力として挑戦させてもらえるのは大手企業にはない、個人事務所ならではのよさだと思った。

当時の一角座のスタッフバッジ

 

そうしてやり切ってみた時に感じたのは、企画もやりたいけれど演じることもわたしには欠かせないのだということ。荒戸さんはクリント・イーストウッドの話をよくした。『ミリオンダラー・ベイビー』をはじめとしたイーストウッドの作品性に加え、監督、製作総指揮、主演と全工程に関わるイーストウッドの骨太な映画作りが好きだったのだろうと思う。荒戸さんが作品ごとに自由に映画と携わったようにわたしも映画との関わりを自分で自由に決められる人になりたい・・・。そう思って荒戸映画事務所での手伝いに一区切りをつけることに決めた。

続く